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三河木綿の6重織りガーゼ生地って?

織物としては、基本的な綿のガーゼと同じで、平織りの素材です。

ガーゼは、1枚では薄くて吸水性も保温性も物足りないけれど、重ねることによって、その機能が格段にアップします。

高度な技術力を持ったメーカーでしか、作ることができない多重織りガーゼ。

天然屋がケットに使用しているのは、ダブルガーゼでもトリプルガーゼでもなく、ガーゼを6枚重ねた「6重ガーゼ」です。

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上質な三河木綿糸を使用した優しい肌ざわり。

洗濯するたびにアップする、やわらかさとボリューム。

生地の間に空気をたっぷり含むことで実現する保温性。

通気性が高い、ガーゼならではのサラッと感。

軽さと、適度なボリューム。

三河木綿のガーゼケットは貴方を幸せな気持ちにしてくれます。

使い込むほどにフワフワになるガーゼの特性が詰まった、三河木綿6重ガーゼケット。自分だけのお気に入りの1枚になること間違いなしです。

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お客様の声 三河木綿6重ガーゼケット 

先日、三河木綿6重ガーゼケットをお求めいただきました北海道札幌市のK様から、うれしいお声を頂きました。

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『購入してよかったと思い、喜んでいます。電話で何度か問い合わせの後、注文したのですが、皆様が親切に製品の説明をしてくださったので、安心して購入することができました。手元に届いた商品を見て、ご紹介どおりの確かな製品だと感じました。風合い、手触り、色柄・・・全てから本物の良さが伝わってきます。この暑い夏にぴったりです。今後も本物の製品を発信し続けていただきたいと願っています。』

 

K様、ありがとうございます。三河木綿6重ガーゼケットは洗えば洗うほど、ふんわりとボリュームも出て、風合いもよくなりますので、安心して洗濯機で洗って頂き、暑い夏を気持ちよくお過ごしくださいね。

 

弊社では、商品と一緒にアンケート用紙をお送りしています。

お客様からこのようなうれしいお言葉をいただくことも多く、大変励みになっています。

K様のコメントにもありますように、お電話でのお問い合わせも多いです。

弊社の製品は決してお安くはないので、よくご検討いただき、ご納得の上で安心してお求めいただきたいと心から願っていますので、お電話やメールでのお問い合わせ、大歓迎です。強引にお勧めすることは一切ございませんので、買うかわからないけど、ちょっと気になるな・・という時にも、ご遠慮なくお問い合わせくださいね。

 

 

三河木綿多重ガーゼ メーカーのこだわり

三河地域は、精錬・染色・織・縫製 それぞれ専門の職人が集まる繊維の町です。

ここでは、生地から製品まで一貫して製造することが可能です。

中瀬職布(メーカー名)は、三河の木綿の歴史が築いてきた「伝統と信頼」を守るため、見えない所にも納得いくまでこだわって、ものづくりをしています。

地元の染工所、縫製所を使用することで、製品の見た目だけではわからない部分においても、安全性と品質に自信を持つことができます。

伝統を守るだけではなく、現代のニーズも取り入れることで、伝統に新しい命を吹き込むものづくりに取り組んでいます。

常に、生産者の良心と、製品への愛情をもって、ひとつひとつ丁寧に仕上げています。

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三河木綿多重ガーゼの特徴は、やわらかさ。

このやわらかさは、選び抜いた素材と技術により生み出されます。

 

段戸山を源流とする豊川水系、矢作川水系は優れた伏流水を三河の地へともたらしてくれます。伏流水は繊維の生地を精練・染色するのに大変適しています。

 

また、三河木綿の多重ガーゼは、何層もの組織を一度に織り上げるため、生地と生地の間に空気をたっぷり含んでいます。この空気の層が、ふんわりとしたやわらかさの秘密です。

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三河木綿の歴史

「天然屋」を運営している株式会社山繊は、愛知県蒲郡市にあります。この辺りは昔から三河地方と呼ばれ、綿花の栽培や綿織物業が盛んな地域でした。

この土地で作られる綿織物は「三河木綿」と呼ばれ、現在も寝具やバッグ、帽子など、さまざまなものに形を変えて親しまれています。

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〔日本の綿の起源は三河地方〕

『類聚国史』や『日本後記』によると、799年(延暦18年・平安時代の初め頃)に崑崙人(コンロン人)が愛知県幡豆郡福地村(現・西尾市)の海岸に流れ着き、助けてもらったお礼に綿の種と栽培方法を伝えたと言われています。『日本後記』には、これが日本の綿の起源と記されています。しかし、その綿種は日本の気候に合わず繁殖しませんでした。

〔三河木綿の誕生〕

国産木綿がはじめて文献にみえるのは、永正7年(1510年)で興福寺の大乗院に残っている「永正年中記」に年貢180文の分として「三川木綿」をとったとして記されています。
当時、三河産の木綿が商品として各地に出回っていた証拠でもあります。最初に綿業が根を下した土地は三河であり、永正年間(1504~1520年)すでに綿織物業がおこり、天文年間(1532~1554年)以降、木綿商人は積極的に販路を京都方面に求めたと言われています。
いずれにせよ三河地方が綿業を他の地方に先駆けて発展したことは明らかです。

 

17世紀まで三河木綿の産地は、西三河の矢作川流域が中心で、蒲郡地方はそれに次ぐ生産地でした。元来、農地が少なく比較的温暖な蒲郡地方は綿の栽培に適しており、ほとんどの村で木綿が栽培され、現金収入の手段とされていました。

江戸期に入ると「綿耕作」「糸紡ぎ」「機織り」「木綿販売」が分業化・組織化されて、地域の基幹産業を担っていきました。江戸中期から木綿製品の需要が高まり価値が上がって増産されるようになり、明治に入ると工場が建てられ本格的に織物業が始まりました。以後、織物業はますます盛んになっていき、この地方の織物は「三白木綿」として江戸方面に送られ、さらに西洋の技術を取り入れ、明治時代には「三河木綿」「三河縞」というブランド名で全国に知れ渡りました。もともと蒲郡の「蒲」は蒲の穂の「蒲」からきており、蒲の穂や葦で織られたものが日常的に使われていたようです。それに綿が加わり、綿の栽培と綿織物が盛んになっていったのです。

 

その後、太平洋戦争が始まり織物業は一時休止されましたが、戦争が終わると衣料不足の影響から綿布は高値で大量に売れていきました。1948年(昭和23)からの数年間は、つくればどんどん売れる「ガチャマン景気(ガチャンと織れば1万円儲かる)」と言われ、蒲郡地方は「ガチャンの町」として全国的に有名になりました。戦時中、休止状態になっていた織物業は、ここにきて目覚ましい復興を遂げていったのです。

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